2019年11月27日

中学三年生のとき、吹奏楽部のコンクールの本番数週間前からなぜか突然音が出なくなって、楽器を変えたり楽器屋さんに見てもらったりしたけど何をどうしても音が出なくて、小さな学校だから誰かと代わるとかもなくて、本番、ライトの当たった大きなステージの上で家族や憧れの先輩や片思いしてる同級生のいる真っ暗な客席に向かって何にもできずにいたあの時間を忘れられない。自分に関する一番強い記憶がそれで、まだあの時間が続いている。


冬は好きなところもあるけど、受験生のときの感情を思い出すから嫌だ。惨めだと感じた瞬間ばかり覚えているのは、つまり自分に甘いということだろうか。自分に呆れられるのがもう嫌だ。


一度憧れたことをできている人や、手に入れたかったものを持っている人を羨ましく思っても、そこに「でもなれなかった自分」を混ぜないでいたい。人に優しく、嫌な感情は持たず、何にも執着せず、自分に期待せず、自分にしかないものや特別な人生を求めず、諦められないものは思い出さないようにして、静かに生きたい。でもこれは正しくなくて、極端な考えで全部なかったことにするのは卑怯だとわかっている。以前「諦めることと投げやりになることは態度としては似たように見えることもあるけど全く違うからうまく諦められるようになりな」というようなことをよく言われていたけど、うまく諦めるためには考えるだけでおかしくなりそうな気持ちに向き合い続けなければならない。


仕事は最低だし生活はしょうもなくて何にもうまくいかないけど、おいしいごはんを作ったりアイスを食べたり野良猫に会ったりオンライン英会話に登録したりして過ごしている。どうにかやっていこうとするのは素晴らしいことだと言い聞かせる。来年はハーモニカを吹けるようになりたい。


日記、変な終わり方になる。