不健康な思い出

何度か書いたことがあるけど、中学3年生のとき、吹奏楽部のコンクール数週間前から全く楽器が吹けなくなって、修理に出しても基礎練をずっとやっても全然だめで、部員も少なかったし先生もたぶん気を遣っていたからメンバーを変えるとかもなくそのまま本番になり、わたしはライトの当たった大きなステージ上で家族や卒業した先輩や同級生たちがいる真っ暗な客席に向かって何にもできないままでいた。あのときの絶望感がずっと忘れられなくて、あれがわたしがわたしになった出来事のひとつだと感じている。本当はそんなに意味なんかないのかもしれないけど、努力も経験も全部一瞬で消えることがあるのだとか変なことを思って、拗ねて、そのまま大人になってしまった。

 

わたしは吉野朔実が大好きなのですが、『瞳子』で葉山くんが出てくるエピソードが特に好き。幼い頃に飼い犬に噛まれて怪我をしたらその数日後に犬がいなくなってしまって犬の行き先を誰にも聞けなかったという瞳子の話に対して、天王台が今すぐ新しい犬を飼えと言うのをすごいと思っている。自分の人生にとても大きな意味を持たせるようになってしまった出来事にはそうやってぶつかるしかないのかもしれない。あの出来事で自分が自分になってしまったと感じるのは不健康なのかもしれない。

(葉山くんも好きです。家に誘ったとき、ちゃんと瞳子にはお水入りのワイングラスも用意してあげてるようなところとか。本当は傷ついた子どもというのは葉山くんのことだろうなと思うし、そのあとの瞳子の気持ちも好き。『恋愛的瞬間』の、「あなたのようにはずやつもりでは人と付き合えない人間はむしろ至福を得る可能性が高い。欠乏感が強い方が必要なものを得やすいというのが理屈です」だなと思う。)

 

憧れていた場所にいる人を見たくないし、もう誰にも何にも執着せず、心を乱すことなく生きたいけど、そんなことできないんだよな。苦しいものですね。新しく何かを得るために努力できるほどの元気はなくて、早く自分のことを100%諦められるようになるための努力しかできない。わたしはお金がなくて大学を辞めたのですが、今年から通信制の大学に入ろうと思っている。