宇宙船、または潜水艦

子供の頃、学校の先生にはさみしくてなれないと思っていた。今も、短い時間で他人の人生に大きくふれるなんて耐えられないだろうと思う。病院も似たところがある。明るい別れも暗い別れもあるけれど、病院で働く人たちはここを離れたらもう会うことのない人たちの人生に絶え間なく触れている。耐え難くさみしくはならないのだろうか。

看護師さんも介護士さんも理学療法士さんも作業療法士さんも清掃員さんも、「さみしくなる」と言ってくれる。わたしはこれから元の生活にどうにか戻ったり戻れなかったりして、病院にいたことはきっと思い出になって、誰の名前も忘れてしまって、毎日何時間もリハビリしていたことなんか思い出の中を探って探ってやっと思い出すくらい淡いものになるのかもしれない。もう病院にはいたくないが、わたしは人と出会ったり別れたりするのが苦手だから、ひどくさみしい気持ちになる。前の病院にいたときはずっとぼんやりとしていて、「生き延びる」ことができたら退院だった。今の病院は「自分の人生に戻る」ための退院で、ああ、わたしは通過点というものが苦手なのだと感じる。


病院はつらいことばかりだった。ずっと不安だったし、大部屋はなかなか眠れず、リハビリもつらく、お金もかかった。だけど、何をしても絶対に誰かに守られていた。特別な時間の流れがあって、その不思議さが、何か宇宙船や潜水艦にでもいたかのような気分にさせる。


上京したばかりの頃、盲腸で救急車を呼んだときに誰か近くに頼れる人はいるかと聞かれて何も答えられず、なんとか積み上げてきた自分の人生が崩れ落ちるような気持ちになったが、今回も同じだった。あのときから何年も経ったのに、何も変わらない。わたしだけが誰にも頼れないと思っているのかもしれないし、本当に頼れる人は一人もいないのかもしれないが、それが本当にわからない。家族に病院へ洗濯物を持ってきてもらうのを頼むのもこわかった。ひとりになりたくてたまらない人間が誰かに頼りたいと思うのはひどく罰当たりな考えな気がする。