何のための地獄

東京に戻り、自分の意思は反映されないよくわからない暮らしをしている。自分で自分の暮らしを選ぶことが許されない。よくわからない街でよくわからないマンションを契約した。お金を払える気がしない。とても嫌いな人と一緒にいる。なぜこんな暮らしをしているかわからないけど、全部自分でどうにかするしかない。自分でどうにかできない理不尽なことは耐えるしかない。


なりたい人間になれなかった。自分のくだらなさに向き合い続けるなんて地獄だと思う。誰も愛せない、誰にも愛されないのに、完璧な愛ばかりを空想してしまう。何が起こるかなんてわからないけど、平気じゃないのに生き延びてしまう自分を想像する。失踪できない自分を想像する。何のための地獄なのかと思う。

 

救われることはなくても救いを求めてもいい。暗いことしか言わないが、へらへらすることもできるし、ずるいこともするし、生き延びることに関しては大丈夫で、それが何よりも嫌。

宇宙船、または潜水艦

子供の頃、学校の先生にはさみしくてなれないと思っていた。今も、短い時間で他人の人生に大きくふれるなんて耐えられないだろうと思う。病院も似たところがある。明るい別れも暗い別れもあるけれど、病院で働く人たちはここを離れたらもう会うことのない人たちの人生に絶え間なく触れている。耐え難くさみしくはならないのだろうか。

看護師さんも介護士さんも理学療法士さんも作業療法士さんも清掃員さんも、「さみしくなる」と言ってくれる。わたしはこれから元の生活にどうにか戻ったり戻れなかったりして、病院にいたことはきっと思い出になって、誰の名前も忘れてしまって、毎日何時間もリハビリしていたことなんか思い出の中を探って探ってやっと思い出すくらい淡いものになるのかもしれない。もう病院にはいたくないが、わたしは人と出会ったり別れたりするのが苦手だから、ひどくさみしい気持ちになる。前の病院にいたときはずっとぼんやりとしていて、「生き延びる」ことができたら退院だった。今の病院は「自分の人生に戻る」ための退院で、ああ、わたしは通過点というものが苦手なのだと感じる。


病院はつらいことばかりだった。ずっと不安だったし、大部屋はなかなか眠れず、リハビリもつらく、お金もかかった。だけど、何をしても絶対に誰かに守られていた。特別な時間の流れがあって、その不思議さが、何か宇宙船や潜水艦にでもいたかのような気分にさせる。


上京したばかりの頃、盲腸で救急車を呼んだときに誰か近くに頼れる人はいるかと聞かれて何も答えられず、なんとか積み上げてきた自分の人生が崩れ落ちるような気持ちになったが、今回も同じだった。あのときから何年も経ったのに、何も変わらない。わたしだけが誰にも頼れないと思っているのかもしれないし、本当に頼れる人は一人もいないのかもしれないが、それが本当にわからない。家族に病院へ洗濯物を持ってきてもらうのを頼むのもこわかった。ひとりになりたくてたまらない人間が誰かに頼りたいと思うのはひどく罰当たりな考えな気がする。

選択と生活

わたしと家族らしい付き合いをしたい人と話をして、すべてから逃げ出したくなってしまった。何か意見することもできず、どんどん話が進んでいくのをそういう物語を見るように見ている。わたしは「自分ひとりで自分の生活を選択できる」ことを何よりも大事にしたかったのだと、最近気付いた。本当はそれも正しくなくて、もっと意地の悪い考えで、わたしは人の思い通りになりたくないし誰の気も済ませたくないだけなのかもしれない。幼稚で我が儘だと一蹴されるようなことばかりを考えている。


聴力が良くなることはないし、機能が戻ることもないらしい。怪我が完治するのもまだ先らしい。体調もこれ以上回復することはないらしい。それでも退院したら社会にしがみついて平気な顔をしていなければわたしが望むものは手に入らないのだとわかっている。何にも問題ないと証明しなければもう望む場所に戻れないのだとわかっている。不安でこわくて恥ずかしい。

わたしだけの暮らし

退院の日が近づいてきた。東京でまた社会に見捨てられないようにしがみつく日々が始まると思うと不安でしかたがない。もうあとひとつでも間違えてしまうとどこにも戻れない気がする。ひとりでどうにかしなければいけないけど、なにひとつ失敗してはいけない緊張感がある。例えば電車を乗り間違えてしまっただけでもう何にもやり直せない気がする。自分に追い詰められている。


人生のことを考えると焦ってしまう。お金はどうなるのだろう。保険は一回目の入院しか対応していなかった。入院代を払って、通院費を払って、引っ越し代を払わなければならない。

わたし以外の人でわたしの今後の生活について話が進んでいく。わたしを側に置いておきたい人の側にいることがどうしてもできない。家族(らしい)付き合いがどうしてもできない。わたしは誰とも親しくなれないまま「あーあ、今日もだめだった」と家路につく暮らしを愛していたのかもしれない。さみしい暮らしは孤独に苛まれることはあっても、集団に馴染めずどうやって息をすれば良いかわからなくなることはない。孤独な暮らしを選ぶことで尊厳を守っていた。自分で自分の暮らしを選択する権利がないのは思っていたよりもつらい。

とことんまで

仕事のチャットを見ていたら、社会から取り残されていることがはっきりとわかって泣いてしまう。居場所をつくることに躍起になってもむなしいだけとわかっているが、だからといって社会のどこにも触れずに生きていけるほど強くもなければ特別なものも持っていない。

 

自分自身について、最近はずっと馬鹿げたことをたくさん考えていた。自分は何にも持っていないし何にもなれないし誰にも愛されないと思っているが、自分の考えていることがわかるという点にのみ自信があって、でもそんなこともふとくだらないと感じると急にすべて情けなくなってしまう。誰にも見せない短歌をひとりきりつくっていたときの方がずっとまともだった。

 

生きて感じることの全てが面倒くさくなっても、病院にいると「生きなければいけない」と思わされ、息が苦しくなる。病院のそこが嫌い。負の感情に流されてとことんまで悲しむことが許されない。以前は「今のつらいことも全部ハッピーエンドの伏線」だとかよく書いていたが、今はそう信じられない。全部思い出づくりだと思ってどうにか生きられる。


先生から後遺症の検査結果と今後の治療についてお話があり、「あなたの未来は明るいですよ」と言ってもらった。他の病院では「治らない人は何をしても治らない」と言われていたので、ずっと暗澹たる気持ちで過ごしていた。落ち込む必要は何一つないらしい。

 

『戦争は女の顔をしていない』を読み返している。

やさしい生き物

夜に病室でひとり、廊下を歩く看護師さんに気づかれないように泣くことにも慣れた。このまま入退院を繰り返すのかもしれない。そんなことはなくて、すぐに良くなるのかもしれない。1回目の入院代は払えたが、次は払えないと思う。


後遺症は良くなるのかわからないらしい。地元の脳外科の先生は「治らない人は治らないから僕ができることはありません」と言っていた。入院先の先生は「後遺症が良くなるように手を尽くすことはできるし、片耳が聴こえないのも手術で治す方法はあるから諦めず頑張ろう」と言ってくれた。どちらの先生が言うこともきっと本当で、真摯な対応なのだとわかっているが、これから先また働けるのか、ひとりで生活できるのか、後遺症のせいで誰かに迷惑をかけたりしないのか、不安で不安で仕方がないので希望のある言葉を信じようとしてしまう。


数ヶ月後に退院できてもしばらくは杖を使って歩くらしい。自転車には乗れないので東京の自宅は引っ越さないといけないかもしれない。耳は手術で治らなくても補聴器がある。体調も良くなってきた。体の麻痺はもうない。大丈夫だと言い聞かせる。


実家にいると、実家の暗い部分ばかり考えてしまう。犬を撫でて暮らせるのはよかった。いつかわたしも犬と暮らしたい。自分に優しくしてくれる生き物が恋しいだけかもしれない。自分の欲望や自分のくだらなさについて考えるとき、虚しくてたまらなくなる。

この部屋いっぱいの孤独

脳外科の先生がきて、簡単なテストを受けた。できないはずないのに全然できなくて、ただひたすらベッドの上で一日が終わることを考えていただけのときには考えられなかった「後遺症と付き合いながら社会で生きていく自分」を考えて絶望した。体が良くなって歩けるようになればまた東京に戻れるし、今までみたいに頑張れば大丈夫なのかもしれないと何となく考えていたが、そんな簡単な話ではなかった。先生の前で泣いてしまった。


退院が近づき、退院手続きや支払いに関する話をしに事務員さんが来ることが増えた。まだ金額は確定していないが、保険会社の手続きが終わるまでに自分の貯金だけで支払える気がしない。


実家に帰ることで家族が揉めている。姉にあまり良く思われていないらしい。グループLINEで父が「少しの間我慢してやってくれ」と言っているのを見た。「気を遣わせてすみません」を入院してから馬鹿みたいに言っている。人に嫌われたり呆れられたくない。上京してひとり家で静かに暮らすのは孤独ではあったけど、自分で片付けられる問題ばかりがあって、毎日つらいながらも部屋のサイズ以上の苦しみはなかった。

 

もう一年が終わるけど、何も考えたくないし誰のことも思い出したくない。救いがほしいとかバカなことを思ってしまう。救いがなくても生き延びてしまうのだからどうすればいいんだろう。いつものことだけど暗い日記になってしまった。