ツワブキの匂い

犬が血を吐いた。かかりつけの病院が閉まる5分前だった、迷惑だと思いつつ先生に電話をしてみたら別の病院を紹介してくれた。急いで連れて行ったらなんてことなかったようで、注射を打って様子をみることになった。自分の住所を何度も書き間違えた。病院には犬のぬいぐるみに混じって靖国論という本が天井近くに置いてあった。先生は強そうな人で猫にひっかかれたという傷あとがあった。診察の後かかりつけの病院の先生にも連絡をしてくれた。先生が説明をしてくれている間の一瞬、昨晩夢に出てきた同級生のことを考えた。どこまでが平気なのか、いつまでが平気なのか、わからなくて絶望的になった。母は父が何もしないと嘆いていた。帰りの車の中からずっと犬が死ぬときのことを考えている。友人の家で飼えなくなった犬を私の家で育てはじめて四年が経つ。躾はしてない。生後2ヶ月で家族と別れてから他の犬と仲良くしたことがなくて、きっと死ぬときも一匹だろう。昔、私の家で亀とハムスターが死んだ。ハムスターは姉が飼っていて、私は向かいの家のおじさんがおがくずをくれたことしか覚えていない。亀はわたしが小学二年生のときに知り合いが拾ってきてその年に死んだ。名前もなかった。私が責任者のようになっていて、今思い出そうとしたらだめだったことばかり最近の言葉になって思い出されるけれど、当時も後悔があって後ろめたい気持ちもあった。けれど私はすべてが恐ろしくて仕方がなく、恐ろしさを知るのも恐ろしくて仕方がなく、亀の死をただ私のものにして日記を書いた。先生は泣いて褒めてくれた。私は亀をこれっぽっちも愛してなかった。亀は死んだら死んだだけで、天国で元気にしているだなんて、傲慢で、亀を殺してしまうのが怖いだけだった。亀のことを今祈っても、亀は死んで私は生きている、それだけしかない。誰が死んでも私は天国をつくらない。犬はいつか死ぬけれど、死んだら死んだだけで、私は私の強さも犬の強さも信じている、またどこかで会うことを祈ったりはしない。今日の晩ご飯はいなり寿司とから揚げと鱈のお吸い物だった。箸をもつと今もちゃんと犬がいることに落涙しそうになった。犬は私よりずっと小さくて軽くて、歩くと トッ トッ と音がする。爪が少し伸びると カチッ カチッ になる。冬は肉球が冷たくなって、眠ると暖かくなる。半生タイプのドッグフードが好きで、缶詰などのどろっとしたものは嫌い。本当に、いつまでもいつまでも生きてこわい思いはしないでいてほしい。病院の先生が 犬が人間より強くなると犬がくるしむんですよ 家族みんなを守ろうと思うとゆっくりも眠れなくなってしまう と言っていた。妹がひいたであろうおみくじを見ながらどうしたらいいか分からなくなっている。犬は私よりずっと先を走っていて、追いつくべきか追いかけているべきかも、どうしたら追いつけるのかも、まったくわからない。犬はずっと眠っているけれど、物音がすると飛び起きる。四年間ずっと先を走らせていたことを今になって後悔している、本当はこれが後悔なのかわからない。先生は躾けたらいいからと言っていた。犬を躾けるなんて嫌だと思っていた。私の方が偉いなんてそんなわけないだろうと思っていた。ずっと犬を撫でていて、撫でるしかできなくて、飛び起きても震えてもずっと撫でるしかできなくて、永遠に撫でるしかできない気がする。犬がただ老いていくことを私もただ老いながら見るだけで、あとはもう、それから先のことは本当にわからない。たまにどこかからツワブキの匂いがして、ゴム手袋が真っ黒になる気持ちがせり上がってきて、犬にもそんな風に生きてもらいたいなんて思うけれど、それも本当にわからない。