いつも帰る

新宿駅に降りた。人が一方向へ束で流れていって私はそこを渡れずにいた。人がたくさんいると頭の中に教室を作ってそこへ人を振り分けていく。新宿駅では教室に入った生徒はすぐに出ていくばかりで、そうか駅はのりしろのようなものだから長いこと居てはいけないと思って新宿御苑へ行った。新宿御苑はわたしのほかに人がいなくて、無数の大木に囲まれていると頭の中心だけがやけに冷静になってしまって、なんだか落涙しそうだった。夏の日の朝の天王寺動物園でもこの気持ちをみたことがあった。あの日は大雨で雷も鳴っていて、私のほかには気を抜いた大きな動物と大きな動物に合わせた大きなものたちだけで、私は急にこの世のいっさいがっさいが恐ろしくなってもうずっと会っていない人のことを思い出したりしていた。あの日と同じだった。お昼の新宿御苑には人がぽつぽつといたけれど奥まで行けばやっぱりこの世の果てで、そういえばひとりきりのときにそばにあるものはそのサイズに合ったもののような気がする。ひとりきりのサイズよりも少し大きいと寂しさになるし、ひとりきりではどうしようもない大きさのところにいるとき(あまりに大きいとその中に取り込まれてしまうものだ)、それはやっぱりこの世の果てになる。無数の木も、ライオンも象もオオカミも、わたしひとりきりではどうしようもなく大きくて、それだけなのに私は長いこと絶望していたのだった。

帰りの夜行バスで私は一番落ち着いていて、少し楽しくもなっていて、そのことにひどく落ち込んでいた。本当は遠くへ行くのが苦手だ。嫌な日常に戻るのだとしても、帰りになればやっと何かを考えられるようになって安心してしまう。二階席はよく揺れて、暗い車内に誰かの携帯電話の光だけが明るい。隣の人のいびきは聞こえず小声のアナウンスは聞こえるくらいの音量にしてスピッツを聴いていた。ボロボロになる前に死にたい。飛行機もバスもただあるだけじゃだめで、行き来させる人がいないとそれらは飛行機やバスになれないと気がついてまた落涙しそうになった。このままバスがニュージーランドや箱根や竹富島に着いてくれたら、愛媛も東京も嫌いだ、バスはロマンチックじゃないけれど、銀河を走って宇宙の果てを見せてほしい。結局朝になれば愛媛に着いていた。